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Brian Glenn Truex |
苦境の中での啓示
Revelations in the Face of Adversity
論文:デブラ・グラル (Debra Grall) と ジーヌ・エバルレーン (Jeanne Eberlein)
翻訳:アーロン・キャス, 友香 ・キャス (Aaron & Yuka Cass)
「神秘がない人生は生きたくない。全部を知らなくてもいい。全部を教えられなくてもいい。世界と想像的に繋がることが必要なのだ。」
ジャネット・ウィンターソン
ブライアン・トゥルエックスの最初の言葉は「なぜ?」がふさわしいかもしれません。若い頃から美術に興味がありましたが、毎日のありふれた日常の中ではこの質問の答えは得られませんでした。しかし、後に起こる数々の苦境のお陰で、つまらない日常から覚醒して、素晴らしい国際的な美術家へとなっていくのです。
ブライアンは1996年にお母さんが癌で亡くなってしまうという大きな苦境にあいました。それからというもの、ブライアンの昔からの「何のために生きている?」という質問に対して、彼自身無視ができなくなりました。このことが「どうやって現代の世界を精神的に有意義なものにするのか?」という質問を追求していくきっかけになりました。
「もしかしたら「アート」は無理かもしれない。けれどやってみないとわからない。結果については何ら思い違いをしていない。そして私は終りのない努力を怖がっていない。ただ私の精髄を明らかにするだけで全て納得がいくのだ。」
ジーヌ・アードマン・キャンベル
お母さんの死というものが、ブライアンの美術大学院入学の決心を導きました。そして彼は美術を追求すると確約しました。
彼は大学院入学の準備をしながら、たまたまシカゴで画家師のパトリック・べトディエ(Patrick Betaudier)の10日間の研究会に参加しました。べトディエ師は20年間に渡って「テクニック・ミックス」をフランスのモンフランクウィンのアトリエで熟達しました。こういうテクニックは巧妙な細工で釉薬を層にします。べトディエ師はこのテクニックを使って、素晴らしい作品を生んできました。
ブライアンは研究会で会ったべトディエ師に感激し、大学院入学を延期して、南フランスのべトディエ師のアトリエで一年間、ブライアンとしては初めての国際的な経験を積みながら、絵の勉強はもちろん、多数の美術、神学についての本を読みました。この時、初めてジョセフ・キャンベル(Joseph Campbell)の本を読み、神話学に強く影響を受けました。
「もちろん私達の人生の旅は外へと向かうけど、同時に中へも向かって、想像の源泉へ、外ではなく、私たちの中へ、ミューズへと。」
ジョセフ・キャンベル
フランスでの生活はブライアンにとって初めての海外生活でした。新しい経験を楽しみながらも、フランス語が話せなかったことなど、フランスでの生活が困難だと感じることも多く、お母さん三回忌をむかえる頃には引きこもった状態になってしまいました。しかし、それも彼には必要だったのです。苦しみながらも深い内省をしたことで美術に対しての新しい洞察力も得られました。死は生命を豊かにするっと分かってから、心が癒されて、自分の中の秘められた能力をも見つけることができました。
フランスから帰ったブライアンは美術大学院に入学しました。彼の勤勉主義、写実主義、絵の才能は高く評価され、生徒の中でもひときわ際立っていました。同じ年、偶然にもべトディエ師が陪席教授になり、その後三年間、ブライアンはべトディエ師の元でフランスで得たことを維持しながら、さらに絵の勉強を深めていきました。
「ブライアン、なかなか上達したね。あなたの幻覚が本当に見え始めましたね。何て言うべきか?素晴らしい! 」
パトリック・べトディエ
べトディエ師以降ブライアンに第二の影響を与えたのは、ルームメイトとの「卒業後はどうする?」などの会話からでした。というのも、アメリカでは9月11日のあのテロ事件以降、芸術家・美術家に対しての資金支援や、技術の向上の支援が受けにくいものとなっていたのです。ルームメイトは大学院入学前に海外で英語を教えたことがありました。そこでブライアンも彼に影響を受け、すぐにJETプログラムに申し込みをし、日本に英語教師として派遣されました。
ブライアンは言います。「日本での英語教師としての仕事は今までの中で一番難しかった
。」彼は小学校3校と中学校1校、合計800人以上もの生徒を受け持っていました。そんな最中、ブライアンは緊急手術をするほど自転車事故で足を痛め、またもや苦境にたたされたのです。ブライアンの家族や友達はアメリカに帰ることを勧めましたが、ブライアンは「こんなことで日本での経験を無駄にしたくない。」と留まることを決意しました。
ここでもまた困難な境遇が彼の美術に対する焦点を前進させるものとなりました。痛みの生じる足を覆った布を眺めていたことから、布の情景に興味を持ち、それが彼の次の作品のシリーズとなりました。「以前は作品が文字どおりにそれを表現していたが、今はこの布が象徴して表現している。」予測のつかない布の形状は心理的な意味合いを多く含んでおり、彼の美術の素晴らしく新しい様式が探求され始めることになりました。
「質素なものでさえ簡素な茶室に囲まれると不思議なほど美しく感じられる。お茶をたてるという行為によって、人それぞれに熟慮され、自身との関係、そして小宇宙についても熟慮され、そしてこの世界との関わり合いについて気づかされる。」
ジョセフ・キャンベル
布の形状を用いた作品が今のところ彼の作品の中で最も人気のある作品として話題を集めています。そしてこれらの作品が世界の理解という新しい啓示を彼に与えたのでした。彼はまた芸術家としての新しい時期をむかえ、彼がずっと答えを見いだそうとしていた最後の答えに近くなっていきます。
足が治ってからは、また元のように仕事にも創作活動にも意欲を示しはじめました。まず、ブライアンは展覧会を開くのにとても困難を極めました。 そして初めて応募した美術展では彼の同僚が援助してくれました。がしかし、その後、文部科学省から今後一切援助を受けることを禁止されたのでした。そのとき日本には彼の友達はその同僚ただ一人でした。
そのような問題があったのにも関わらず、彼は美術展で入賞し、和歌山市での単独美術展覧会を開ける機会も得ました。彼が那賀町で唯一の外国人であることで、人々は彼に好奇心を抱いていました。それが彼の文化とは全く違ったもので苦悩したこともありましたが、あとに大阪や東京でも美術展に出展する援助を受けることができたという利点もありました。

2005年にアメリカに帰ってからはブライアンは彼の国際的な経験を生かしてアメリカでの評価も上がっていくのではないかと大きな希望を持っていました。が、さらに大きな苦境が彼を襲います。彼の体調が思わしくなく、しかも体力的にも限界があったため、大好きだった仕事を止めざるを得ませんでした。そして2008年10月、彼の友でもあり、師匠でもあったべトディエ師が亡くなってしまったのです。べトディエ師の死後、ブライアンはすぐに理解することができました。なにか変化が必要だ!ということを。
2009年、ブライアンの美術家人生の中でもっとも重要な年を迎えます。べトディエ師のテクニック・ミックスの技法を10年間学び、作品に生かし続けて、やっとその技法が身についたと実感できたのでした。新しい創作意欲と共に、彼は最新のシリーズ作品に取り掛かかり始めました。
「人生の意味とは漸進的な啓示であり、理解することはまた別である。そうした開示はひとつずつやってくるのだ。そしてこれらの啓示はわたしたちに心の中の領域にふれる機会を与えてくれる象徴的な体験と関連があるのである。」
ジョセフ・キャンベル

ブライアンの作品と神秘への追求は、今後も進展を続けていくことでしょう。そしてべトディエ師は間違いなく彼を誇りに思うことでしょう。
論文:デブラ・グラル (Debra Grall)
と ジーヌ・エバルレーン (Jeanne Eberlein)
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